国民経済研究協会とは
財団法人国民経済研究協会は、日本が第二次大戦に敗北してから三力月半後の昭和20(1945)年12月1日に創立された。この設立に参加したのは、いわゆる"企画院事件"によって企画院を追われ、敗戦当時「科学動員公団」の総務部次長という肩書きであった稲葉秀三(右写真)、戦時中海軍省で物資動員計画の中心的役割を果たしてきた岡崎文勲元海軍大佐、また同じ"企画院事件"関係者であった正木千冬など数人の人たちであった。設立当時の研究所は、東京銀座七丁目、電通通りにあった旧国民新聞社ビルの三階である。設立以来今日まで半世紀以上、財団法人国民経済研究協会は、民間のシンクタンクとして、日本経済や産業、地域経済に関する調査・研究を行い、国や地方自治体の政策形成に寄与するための活動を行ってきた。また日本経済や産業の現状分析、先行き見通しの作業を定期的に行い、企業の長中期経営計画の策定にも貢献してきている。戦前に設立された東亜研究所や満鉄調査部が敗戦と同時に解体され三菱経済研究所が三菱総研に改組されてしまった今日では、国民経済研究協会は、いまや経済関係の民間シンクタンクのなかではもっとも歴史の古い経済研究機関となっている。
国民経済研究協会は、設立当初の銀座七丁目の旧国民新聞社ビルから、干代田区神田駿河台の政経ビル(昭和21年)、中央区京橋の片倉ビル(左写真)(昭和26年7月〜)、中央区銀座五丁目の銀座中央ビル(右写真:旧国民新聞社、現在リクルートビル)(昭和39年2月〜)、港区南青山の青山タワービル(左下写真)(昭和54年4月〜平成11年)を経て、現在の新小川町(平成11年〜)に至っている。
この半世紀余の期間に、国民経済研究協会に在籍した理事、顧問、監事などの役員は累計約90人、研究員・研究助手・職員は200人弱に及ぶ。しかし国民経済研究協会の正式の研究員・職員ではないが、いろいろ研究会や講演会、各種の研究プロジェクトに直接・間接的に参加して下さった方々、また国民経済研究協会の研究報告書や定期刊行物などに執筆して下さる方々はその数倍に達しており、これらの方々の熱意とエネルギーによって研究・調査業務が支えられてきた。
財団法人国民経済研究協会が、その設立以来半世紀間余り、一貫して追求し、維持し続けてきた目標と基本的な姿勢は、昭和22年5月に、創立者の一人である稲葉秀三と、当時の常務理事であった今野良三が協議して文章化した国民経済研究協会の4つの目標の第1項目、「あくまで自主独立の機関とすること。経済界をも含めていかなる特定の勢力にも依拠しないこと。純然たる民間の実証的研究機関とすること」という表現に集約されている。
国民経済研究協会の設立
財団法人国民経済研究協会の設立記念日は、昭和20年(1945)年12月1日とされる。この日に商工大臣・農林大臣から財団法人の設立が認可されたからである。設立の準備が始められたのは昭和20年10月のことであったから準備期間は一力月余り、日本が第二次大戦に敗北した8月15日からわずか三力月半、約100日後のことであった。改めていうまでもなく、昭和20年12月当時、日本は戦争による破壊と敗戦に伴う荒廃の極にあった。当時ほとんどの日本人は、絶対に負けるはずのないと信じてきた"神国日本"が無条件降伏をしたというまったく信じがたい事態を目前にして、呆然自失の状況にあった。ほとんどの日本人は、戦争と敗戦によってそれまでの価値観が一変し、精神的な支えを失ってしまい、未来への希望や夢を語る余裕はなく、ただ今日の食べ物、今日寝るところの心配に明け暮れる悲惨な状況に追い込まれていたのである。このような破壊と荒廃の真っ最中の時期に、早くも戦後の日本経済社会の復興と、あるべき将来の新しい発展の方向を研究する民間の経済研究機関が設立されたと言うことは驚くべきことである。ではなぜ敗戦からわずか100日後という時点で、日本経済社会の再建と新たな発展を目指した民間の経済研究機関、財団法人国民経済研究協会の設立・発足ができたのか。その設立の経緯をみるためには、創立者の一人である稲葉秀三の経歴について触れる必要がある。
稲葉秀三は、明治40(1907)年、京都市東山区で生まれている。京都市立粟田尋常小学校、京都府立第一中学校、旧制松山高等学校文科を経て、昭和3(1928)年に京都帝国大学文学部哲学科を卒業した。卒業後社会問題に関する公共調査機関であった財団法人協調会(今の中央労働委員会の前身)にアルバイトとして勤務、埼玉県川口出張所で中小企業の実態調査に従事している。昭和9年に学士入学した東京帝国大学経済学部経済学科を卒業、財団法人協調会に正式の職員として勤務する。そして昭和12年に企画庁の嘱託として採用される。
この企画庁は、日本の基本政策を策定する機関であった内閣調査局を拡大・強化するかたちで昭和12年5月に設置されたもので、経済企画庁(現、内閣府)と名称・形態は似ているが、その性格・権限ははるかに強大なものであった。昭和12年10月、企画庁は資源局と合併して企画院が創られ、物資動員計画の立案など戦時下の経済統制推進の実施官庁としてさらにその権限を強化する。稲葉秀三は、昭和13年2月に企画院の正式の調査官として、戦争経済に関わる物動計画の調査・立案に参画するようになる。稲葉秀三は、この企画院で大きな事件に巻き込まれる。いわゆる"企画院事件"である。鉄鋼や石炭などの「物資動員計画」、「生産力拡充計画」の策定に参加していた稲葉は、昭和15年5月に、後に「臨時応急物動計画(応急物動)」と呼ばれるようになる作業を行うよう極秘の命令を受ける。その作業とは、
(1)日本帝国は米英とソ違に対して宣戦を布告する
(2)その場合わが国は北進しないで南進する
(3)南進後約半年間で南方地域を占領する
(4)南方からの物資が還送できるのはその後半年間とする
(5)本格的な軍事行動を展開するため、その間、交通や経済などの変動に大きな支障が生じるがやむをえないという前提で、「今後3力年くらいの日本の経済国力を推計して報告せよ」というものである。この作業に懸命に取り組んだ結果、稲葉は、「このような戦争をやるべきではない。結論として導かれた数字からは、米英(場合によってはソ連を含めて)を相手に戦争を構えたら、主要な物資の供給力は昭和14、5年の約半分近くまで低下せざるを得ない」と考えるようになり、そのことが原因で、日本が真珠湾攻撃を行う年の正月、昭和16(1941年1月に逮捕・起訴された。無罪の判決を受けるのは敗戦の年昭和20年のことであった。このいわゆる"企画院事件"では、正木千冬(のち鎌倉市長)、和田博雄(のち国民経済研究協会初代会長、経済安定本部長官)、勝間田清一(日本社会党国会議員)なども逮捕されているが、この人たちが財団法人国民経済研究協会の設立に参加することになる。
国民経済研究協会の設立目的
第二次大戦の敗北からわずか三力月後にスタートした財団法人国民経済研究協会にとって、まず最初に着手しなければならなかった研究・調査の課題は二つあった。そのひとつは、国民経済研究協会の設立目的(設立趣意書)そのものにあった。つまり「日本の戦時経済とは何であったのか。日本の戦時経済はどのように準備されたのか」を明らかにすることである。これは稲葉秀三を始め、正木千久、岡崎文勲など協会創立者は、戦争末期の段階から「戦争経済というものを記録して残しておく仕事を一生かけてやりたい」と決意し、昭和10年頃から急速に進行する軍事経済への進展ぶりを、時間的経緯にしたがって歴史的に整理し、その具体的な経緯を経済統計などの一次資料にもとづいて明らかにしようと考えていた。"企画院事件"で逮捕された稲葉は、昭和18(1943)年2月に保釈となったが、翌年の半ばから物資動員計画に関連のある資料や書類を「ご迷惑をかけないから、資料を私に下さるか、お貸し下さい」と嘆願し、物動計画を始め戦時経済に関する資料や統計類の収集に取りかかった。とくに敗戦の色彩が濃厚になってきてからは、陸海軍や官庁、また戦争遂行のために組織された各種機関で資料や書類の廃棄や焼却が始まったので、さらに精力的に資料の収集に努めていたのである。したがって戦時経済の整理と研究という作業は、協会の設立と同時に始められた。協会設立直後に印刷されている「事業大要」によると、協会が将来目指すべき四つの事業目的を挙げた後、「差し当たり本部並びに商工・農林省に設置された分室に於て実施しつつある事業は次の3項目である。
(1)戦時経済に関する調査(戦時・終戦時)
(2)物資蛍需給に関する調査(戦後)
(3)産業構造に関する調査これを受けて、協会の内部には、「戦時経済調査」のために「戦時国家動員」、「農林水産」、「生産力拡充計画」などの部会やグループがいくつか設けられ、その作業は、『戦時経済資料(全20巻)』などにまとめられている。
協会の設立当初には、戦時経済に関する資料や統計の収集・整理の作業は、小規模の人数で、慎ましやかに行うという方針であったが、昭和21年に入ると、その作業規模を拡大しなければならない状況が生まれてきた。商工省、農林省から、日本の戦時経済に関する資料や統計数字の収集・整理を強く求められるようになったのである。連合軍による日本占領行政が進むにつれて、GHQから日本政府に対して、戦時経済に関する資料や統計類の提出が求められるようになるが、日本の官庁や軍事関連の諸団体では敗戦の直前から大量の資料、とくに軍事に関わる資料類が焼却・廃棄されており、当時の官庁にはそれに応えるだけの資料・統計がなく、充分な対応ができなかったからである。反対に稲葉秀三は、「戦争経済というものを記録して残しておく仕事を一生かけてやっていきたい」と決意し、戦争未期の段階から予備的な準備を進めていた。当時はむしろ国民経済研究協会の方がより豊富な資料・統計類を集めていたのである。商工省や農林省からの要請は、「戦争経済に関する資料を作ってもらいたい。ただし補助金を出すことは厳重に禁じられている。しかし作業の場所は提供するのでぜひ協力してほしい」というものであり、商工省からは、現在会計検査院が入っている建物の一室を、また農林省からは、有楽町の糖業会館の一室を提供されて作業が進められた。
この作業を進める過程で、国民経済研究協会の研究員・職員の人数は急速に増えていった。両省から「できるだけ人数を集めて、早急に資料を作ってもらいたい」と要請されていたし、敗戦によって復員してきた人たちや、満鉄調査部や東亜経済調査局などの閉鎖・解体によって職を失った人々が国民経済研究協会に集まってきたからである。
昭和21年の半ばには国民経済研究協会の正式研究員・職員は約40名、協会と共同事業を行ってきた金属工業調査会の職員が約20名、その他に嘱託などが約20名で、合わせると約80名もの大所帯となっていた。だが戦時経済に聞する資料や統計類を調査・整理するという作業は、昭和21年度半ば頃になると一応峠を越えるようになってくる。その作業の中心は物資動員計画(通称物動計画)、生産力拡充計画などであったが、その他に輪送関係、国民動員、労務動員関係の資料、鉄鋼、液体燃料、軽金属、農林水産などの産業統計の収集・整理も進んだからである。同時に、戦争経済の資料収集・整理と並んで、むしろそれ以上の緊急度で必要となったのが、敗戦直後の経済混乱の状況に対してどのように対処していくのかという問題であった。
敗戦直後の日本の経済社会の状況
このような経過を経て国民経済研究協会は、その研究・調査の次の課題として、敗戦直後の経済的破壊と混乱の現実を正確に把握すること、また日本経済の基本的経済力を正確に測定するという課題にエネルギーを傾注するようになる。昭和21年の初夏に協会内に「物資供給力測定委員会」が設立される。ここでの作業が、その後経済安定本部が着手する「経済復興計画」の策定の基礎的な資料となるのである。第二次大戦の末期、また敗戦当時、敗戦直後の日本経済社会の状況は、実に惨憺たるものであった。日本は昭和20年8月15日の無条件降伏まで、足掛け15年もの長い戦争を戦ってきたのであり、しかもその戦争は、非戦闘要員である国民と国土全体を巻きこむ「近代的総力戦」であった。日本が壊滅的な破壊を受けたのは当然のことであったといえる。
第二次大戦中の死者・行方不明者は、軍人・軍属が186万人(陸軍144万、海軍42万人)、一般国民は69万人、合わせて255万人と推計されている(この推計は経済安定本部・復員局等の推計であり、実際にはこれよりも多く、300万人を超えているという推計もある)。戦争によって喪失した兵器などの軍事的資産は、経済安定本部の推計によると、航空機約6万機、艦船628隻を含め当時の価格で約700億円に達する。この金額は、昭和20年度の国の一般会計歳出予算額7,945万円の880倍に相当する。全国119の都市が爆撃や艦砲射撃をうけ、約900万人の国民が住む家を失った。民間の平和的資産の喪失は、家屋・建物で219万戸(全家屋の約1/4)、家財は全体の21%(国民一人当たり約5.3万円)、車両の22%、工場の34%、船舶の81%で、以上合わせて日本の国富総額の25.2%に相当する653億円となった。また、幸いにして損壊、焼失を免れた工場の機械・設備類も、戦時中にほとんど補修・更新が行われず、その老朽化、陳腐化が激しく、生産能力の低下は著しいものであった。
敗戦時の日本の経済活動水準の落ち込みも深刻であった。国民経済研究協会が推計した鉱工業生産指数によると、昭和20年8月の鉱工業生産指数は、昭和10年〜12年を100として5.1、機械産業はわずか1.1、鉄鋼業3.2、食品産業は17.5に過ぎなかった。農林水産業の落ち込みも大きかった。昭和8年〜10年を100としても、昭和20年産米の生産量は、冷害や風水害などの影響もあって66、野菜は87、畜産は22、水産は65、林業は10に過ぎなかった。
また復員軍人、海外・旧植民地からの引揚者約700万人を迎え、2つの"ショック"、つまり"職""と"食"に関するバランスが急激に悪化した。実質賃金は戦前に比べて10〜30%、国民の一人あたり実質消費水準も戦前比で60%に低下した。米の配給の遅延・欠配が続き、北海道では104日間、東京でも12日間の欠配となった。国民の一日あたりのカロリー摂取量も180カロリーを下回る状況であった。こうした敗戦直後の経済社会情勢を背景に、連合軍の日本への進駐と具体的な占領政策の強制的な執行が始まる。連合軍の日本への進駐と占領は、昭和20年7月26日に署名・発表された「ポツダム宣言」の第7項に基づいて行われた。敗戦から二週間後の8月28日に連合軍の日本進駐が始まるが、連合軍最高司令部としてのGHQが正式に発足したのは10月1日で、それまで横浜に置かれたGHQは、連合国全体を代表する最高司令部ではなく、米国太平洋軍の最高司令部という性格のものであった。敗戦直後の9月3日に「GHQ指令第二号」、9月22日に「GHQ指令第三号」が出されるが、これは米国太平洋最高司令部からの指令であった。ところが11月1日に米国政府が出した指令、「日本占領および管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」における最高司令官は、東京・日比谷にその本拠を置く連合国最高指令官のことであり、従来横浜にあったGHQとは性格の異なったものである。
当初のGHQの対日占領政策の基本方針が、@日本の軍事力の解体、A政治・経済・社会の民主化の徹底という2つに焦点があったことは明白である。またこのGHQの方針は、戦時中の支配階層など一部の特殊な階層の人間を除く、大多数の日本人が支持するものであった。日本占領の初期である昭和20〜21年の段階では、GHQの主たる関心は、@の日本経済の非軍事化にあり、B日本の経済活動、国民の生活水準の"回復"と"復興"に関する具体的な方針は確定していなかった。日本経済や国民生活の復興目標水準・レベルについての方針が示されるようになるのは昭和22年にはいってからである。しかしこの復興目標水準はGHQからではなく、極東委員会から提示された。昭和22年1月23日に極東委員会は「日本国民の生活水準に関する政策決定」を公表、3月14日「生活用品の国内消費制限に関する方針」、そして4月18日「戦後の生産水準に関する決定」を公表した。これらによると、日本の生産水準、国民生活の水準を「1950年に、日本の"平和的需要"を満たすに足る水準、つまり1930〜34年の水準に戻す」と指示している。
国民経済研究協会と経済安定本部
敗戦からほぼ1年後の昭和21年8月12日、経済安定本部(後の経済企画庁、現:内閣府)が設立された。敗戦直後の日本経済の異常な収縮と混乱に対処するために、「計画」と「執行」の両面において強力な権限を有する中央経済官庁の必要性が強く意識されるようになったためである。GHQは、内務省、陸軍省、海軍省の解体に加えて、敗戦から10日目の昭和20年8月25日に軍需省と農商務省を、また9月には軍事省、大東亜省を廃止し、戦時中の経済官庁の解体を行っている。日本占領直後のGHQの対日政策は、日本の「非軍事化」と「民主化」に最大限の重点がおかれ、経済の「復興と安定化」は二の次の課題とされてきたからである。しかし現実の日本経済は、悪性インフレーションと深刻な物資不足に見まわれ、その事態への対処が緊急の課題となっていた。昭和20年暮れから翌年半ばまでの時期、闇市での物価、つまり"闇価格"は公定価格(=まる公)の約30〜40倍にまで達していた。この時期、都市家計の平均で、生活物資の約二割を闇市で調達しなければならなかったから、家計は完全に赤字の状態であった。こうした深刻な悪性インフレに対処する必要から、昭和21年2月16日に「預金封鎖」を実施したが、この時点ではこうした総合的な総合緊急対策を統一的に推進する官庁が存在しなかったのである。日本政府の要請を受けて、昭和21年5月にはGHQは「トップ・ランニング・アンド・コントロール」の官庁を設置することを支持するメモランダムを提示、8月の経済安定本部(通称「安本」)の設置となった。この安本は、経済企画庁(現、内閣府)の全身と理解されているが、そのスタート時点では、戦後の中央官庁のなかでもっとも強力な権限を持つ経済官庁であった。
一方、国民経済研究協会の側においても、経済安定本部に研究員と調査・研究の作業を委譲しなければならない事情が強まっていた。財政事情の悪化である。敗戦直後の急激なインフレーションの過程で、財団基金の価値は暴落、逆に人件費・物件費など支出が急増していった。各官庁も統計調査業務の整備・拡充を開始しはじめ、国民経済研究協会への委託研究・調査の先細りが懸念されるようになってきた。また国民経済研究協会の職員数も急速に増え、昭和21年頃には国民経済研究協会の正式職員、協同事業を行っていた金属工業調査会、その他嘱託などを合せると約80名という大所帯になっていた。そこで昭和21年度末頃から協議を繰り返し、これを三分割政策によって乗り切ることを決定した。つまり、職員の1/3は国民経済研究協会に残る。1/3は官庁の調査部局に移る、1/3は民間の調査機関に移転するというものである。
官庁エコノミストへの転換第一号は、国民経済研究協会の設立者の一人で常務理事であった正木千冬(のちに國學院大学教授、鎌倉市長)で、昭和21年8月の経済安定本部設立と同時に転出した。また昭和22年7月に、GHQの強い指示によって経済安定本部の機構改革・強化が行われた際、昭和22年2月に国民経済研究協会の理事長 稲葉秀三が安本の官房次長として移転する。ちなみにその時の安本副長官が都留重人である。このとき国民経済研究協会から経済安定本部へ移転したのは酒井一夫、三輪芳郎などの人びとであった。
国民経済研究協会と「経済再建復興計画」
昭和20年代の日本で策定された総合的な経済計画は、その策定の時期によって2つの性格に分ける事ができる。その一つは、昭和20年から24年までの前半期の経済計画で、「経済再建」、「経済復興」を目的とするものであった。その主要なものとしては、外務省特別調査委員会中間報告『日本経済再建の方途』(昭和20年12月27日)、外務省特別調査委員会報告『日本経済再建の基本問題』(昭和21年3月)、外務省特別調査委員会報告『改訂日本経済再建の基本問題』(昭和21年9月)、外務省調査局『生活水準と日本経済』(昭和22年2月1日)、経済復興会議『経済再建基本計画』(昭和23年2月)、経済安定本部『経済復興第一次試案』(昭和23年5月)、経済復興計画委員会『経済復興計画委員会報告書』(昭和24年5月30日)、などがある。この経済計画の作成には、官僚が中心ではなく、マルクス経済学者、近代経済学者を含む多くの経済学者、エコノミストたちが参加しているという特徴がある。
もう一つは、昭和25年から昭和30年に至る昭和20年代後半期の経済計画で、「経済自立化」を目的とするものである。それらの主要なものとしては、経済安定本部経済計画室『自立経済達成の諸条件(エオス作業)』(昭和25年6月3日)、経済安定本部『わが国経済の自立について(岡野試案)』(昭和28年6月)、経済企画庁『経済自立五ヶ年計画』(昭和30年12月23日)などが挙げられる。昭和26年9月にサンフランシスコにおいて対日講和条約が成立し、翌昭和27年4月28日にこの講和条約が発効する。さらに昭和27年8月にIMF(国際通貨基金)、IBRD(国際復興開発銀行)への加盟が認められ、昭和30年9月にはGATT(関税と貿易に関する一般協定)への加盟が実現する。こうした一連の国際社会への復帰の動きと平行して「経済の自立化」が日本経済にとっての中心的課題になってきたわけである。
この段階になると、経済安定本部をはじめ、中央官庁の調査・計画立案体制が整備されるようになってきており、経済再建復興計画の場合のように、多くの経済学者、エコノミストがこの作業に参加するということはなかった。ところで、昭和20年代前半期に集中的に進められてきた戦後日本の「経済再建復興計画」の策定作業には、大きく分けて2つの流れがあったことに注目する必要がある。
その1つの流れは、外務省が「終戦後の新事態に伴う外交的視点よりする日本経済の正確な現状認識」を得ることを目的として、早くも昭和20年11月に組織した特別調査委員会が中心となって行った作業である。もう1つの流れは、経済安定本部が、昭和21年9月に組織した「物資供給力研究会」の作業をスタートとし、最終的には『経済復興計画委員会報告書』(昭和24年5月30日)としてまとめられる作業である。
実は国民経済研究協会は、この外務省と経済安定本部の両方の「経済再建復興計画」の策定作業に、そのスタート当初から参画しているのである。まず、外務省の作業について言えば、『日本経済再建の基本問題』の策定の中心となった外務省特別調査委員会の主要メンバー21名のなかに、有沢広巳、大内兵衛、東畑精一、中山伊知郎など東京帝国大学、東京産業大学教授などと並んで稲葉秀三、正木千冬の二人が国民経済研究協会理事の肩書きで加わっている。
また経済安定本部の「経済復興計画」策定作業については、「経済復興計画立案の発端は、昭和21年9月に、財団法人 国民経済研究協会の長期見通し計画のための研究会の業務を継承して、経済安定本部のなかに物資供給力研究会が設けられたことに求められる。この研究会は、主として民間団体や調査機関の独自的意見に基づき、研究を進める建前で運営され、参加団体は国民経済研究協会のほかに、日本発送電、石炭鉱業会、日本石炭、化学工業連盟、鉄鋼統制会、日本銀行、日本産業協会、金属工業調査会などであった」と、国民経済研究協会の役割が説明されている。
外務省や商工省の「経済再建計画」と、経済安定本部の「経済復興計画」とではその性格が異なっていた。外務省の特別調査委員会の目的が、「外交的視点よりする日本経済の現状認識とされていること、またこの委員会の設置が昭和20年11月と非常に早かったことから推測されるように、ここでの作業は、GHQの賠償取立て方針への対応を強く意識したものであり、主として物資の需要面での作業として行われている。一方、経済安定本部の作業は、若干時間が経過したこともあり、「日本経済の基本国力の推計」を基礎にして経済の復興を考えようとするもので、主として物資の供給力、供給面からの推計であった。